クマモト日記
〜「自ら機会を作り出し、機会によって自らを変えよ」(江副浩正・リクルート創業者)〜

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kumamoto

Author:kumamoto
性別:男性
誕生日:1979年5月24日
血液型:O型
出身地:福岡県

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「美文への挑戦」
私達は日々、何かの影響を受けて生きている。迷ったり悩んだり、喜んだりすることは全て、何かの影響を受けたから起るものである。では、人に良い影響を与えるもとは、一体どんなものだろうか?
一つには、美しいと感じるときである。人は、美しいものを見ると嬉しく感じる。大自然の夕焼け、流線型の建物、列をなした鳥の群れ、朝露に濡れた花びら、生演奏の音楽…、美しいと表現する対象は様々あるが、美しいと感じる感情は誰でも同じであろう。僕は特に、空や植物、生き物などに美しさを感じることが多い。その他にも、絵や写真、歌声などにもそう感じることがある。こうしたものに触れると、自ずと心が感動の中に浸っていくのが分かる。美は、人に影響をもたらすものである。

そうした中で、文章にも美しい文というものがある。それを美文という。この言葉に初めて出合ったのは、清水幾太郎さんの「論文の書き方」の本の中からだ。美文とは、特に、明治中期にはやった文筆家の文章のことで、当時はりっぱな文章を模範として、それに従って書かなければならなかったという。悲しいことに、清水幾太郎さんが小学生のころからすでに、美文の時代は終わったという。僕にしてみれば、清水幾太郎さんの文章そのものが美文とも思えるが、いったいどんな文章なのであろうか。そのような文章ならば、一度読んでみたいと思う。 美文がどんな文章かは分からないが、いいなと思う文章にはよく出合う。しかし、その文章がなぜ良い文章なのか、何が違い、何が影響しているのか、それはうまくは説明できない。

数ヶ月前から、文章能力を付けるため、気に入った文章は、筆写をしている。文章をそのままノートに写し取るのだ。1〜2回では、写すのに必死になって内容が頭に入ってこない。3〜4回続けていくと、その文章の味わい方が変わってくる。5〜6回になってくると、文書をある程度覚えてくる。次に要約をしていくのだが、まだこの作業の要領を掴んでいない。そこで、今日もある文章を筆写していた。その途中で、「○○ではない」と書いた。しかしこれは誤りで、本文を見ると、「○○であるはずがない」となっていた。この文章は、今日で3回目だったのである程度頭に入っていた。そのため、確かここは「否定で書いてあった」としか考えず、「○○ではない」と書いた。しかし、「はずがない」と書かれてある事に気付いたとき、はっとした。「はずがない」と書くことで、強い否定を感じさせる。しかも、そう書くことで作者の断固とした思いが伝わってくる。強い思いが読み取れ、さらに言い切る理由を、考えるようになる。こうしたことは、筆写していくとよくあることだ。ただ読んでいるときには気付かなかったことが、書いてみて初めて作者への思いに触れることがある。噛めば噛むほど味が出るというのは、良い文章ほどよくあることだ。何度も何度も読み続けると、その度に気付かされることが多い。また、筆写していくほどに、一つ一つの言葉の重みや感情にも気付いて、作者の深い思いが感じられるようになる。いかに最初の読みが浅く、吸収できていないかが分かる。

話は変わるが、何かの話で聞いた。確かヨーロッパ辺りのことだったが、靴職人が、靴を作る工程を、幼い子供に見せるという。小さいときから、職人の技をじっと見せておくことで、中学生くらいになると、一目見ただけで良靴か悪靴かが分かってくるそうだ。職人のような技術はなくても、そうした目利きができるようになってくる。

こうした教育は、とても大切なことだと思う。子供という時期は、良くも悪くも覚えが早く、身に付ける吸収力もある。三つ子の魂百までというが、徹底して良いものに触れておくと、それなりの基準というものができて、次に良いかどうか判断ができるようになる。よく、若いうちから本物を見ておけという人がいるが、これは心を豊にするために、鍛えておけということなのであろう。こうしたことから、良い文章を子供のときからどんどん触れさせたい。表現力や深い思考を養うだけでなく、何より正しい判断力が付くからだ。美しいものを見て、美しいと感じる心も養っていく。人に良い影響を与えることとは、こうした感じ取る心を深くしてくれるものである。そうした良い影響を与えられる文章を、僕も書けるようになりたい。
「マスコミと思考」
以前ブログで、「考える技術・書く技術」の本の中で、日本人学生の「書くこと」についてのアンケートのことを書いた。その多くの回答が、「なるだけなら書きたくない」という文章嫌いの学生が多いと書いた。その本の続編で、「続考える技術・書く技術」(板坂元/講談社現代新書)を昨日買ってから読んでいる。この本の冒頭は、「アメリカ人」にも書く機会が減り文章能力が低下したことが述べられている。そのため、教育機関では、レポートや試験の際に、長文を書かせるようにしているそうだ。この本が出されて約30年経っているので、現在どういう状況になっているのか興味深いところがある。日本でもアメリカでも、「書くこと」については、同じように深刻な問題となっているようだ。

以前僕は、TVから映像や音声で情報がばんばん流したり電話で用を済ませたりするならば、新聞や本などの活字が無くなる時代も来るのかなと思ったことがある。SF映画の影響かもしれないが。しかし、それは全くの逆で、今やTV、インターネット、メール、雑誌、マンガ、ゲームなどでも、文字に触れる機会は多くなった。昔は無かったTVのテロップ、インターネットの画面、メールや雑誌にも文字が並ぶ。だが残念なことに、これらの文字というのは、思想や感情を連ねた文章ではない。何ページにも渡って理論的に述べられた文章のように、考えさせるものではない。文字や短文のみでは、考えるきっかけにはならない。読書離れとも重なり、「文章」を読む機会は確実に減っている。さらに、上記であるように「文章を書く」ことも、減っている。「人は、書くことなしに考えない」という小林秀雄さんの言葉から、文章を読まない・書かない時代となっており、つまり人間の思考がストップした時代にもなったように感じる。

「続考える技術・書く技術」(板坂元/講談社現代新書)で、ベストテンのランキングについて面白い記述があった。ベストテンといえば、TV、インターネット、雑誌などで、本や映画、CD、食べ物などの人気ランキングが今月や今週と区切って掲載してある。
「1977年3月号のアメリカの『モアー』誌が、ベストセラー作りの裏幕を暴露した内容が掲載された。それによると、『ニューヨーク・タイムズ』と『パブリッシャーズ・ウィークリー』のベストテンのリストは、科学的ではないという。出版社は、自社の本をベストテン入りさせるために、有名小売店に、大量に買い入れさせる。または、『ニューヨーク・タイムズ』にワイロを払い、嘘のリストを掲載させる。こうした人工的に作ったリストが、偉大な力を発揮するようになる。「あの本は、有名小売店に置いてある。○○誌のベストテンに入っている」と噂になり、全国大多数の小売店も、他の本を引っ込めて、その本を大量に買い込むようになる。すると、TVや雑誌、書店で多く見かけるようになる消費者は、購買意欲が高くなる。それが連鎖的に起ると大量に売れ始め、次週からは、本当にベストテンの地位を固めていくようになる」という内容が本書に掲載されている。作為的に作られたリストが、本当にそうなるという。つまり、ベストテンになるように、ランキングしたり販売したりしていることもあったそうだ。

ランキングすることにより、読者が盲従して買うようになる。ベストテンの上位に入ると、それだけで良い本だと信じ込んで買う人が急増するのは、マスコミの意のままに動かされたことになる。マスコミの力を上手く利用したことになるのだろうが、それ以上に消費者が自分で判断できなくなった証拠でもある。自分の頭で考えなくなり、マスコミのみの情報をどんどん受け入れる人間が増えているのだろう。冷たいものが背筋を走る思いがする。

先進国の学生が「書く」ことを苦手としている理由の一つは、TVや雑誌の影響があるのかもしれない。やはり受身として、物事を捉えてしまっているのだろう。自分で良書を見つけて、自分なりの読書生活を作り上げることをせず、雑誌やTVなどのベストセラーのリストに従順に従う人が多くなった。全てがマスコミの情報が正しいと思いこんでしまっている部分がある。すると、考えなくなる。私たちは、自分で考えることをしなければならない。自分で判断しなければならない。そうするために、著者は、「書くこと」を勧めている。鉛筆一本と紙切れだけの安上がりな方法で、もっとも知的に自己表現をすることができ、暇さえあればいつでもできるからだ。どんな情報においても自分の思考で考えるきっかけを与えて抵抗力を養うためにも、書くことは必要なのだ。思考の訓練になってくるなる「書く練習」は、通信手段が発達した時代でも必要とされていくことだろう。
「乱読」
朝

朝6時頃の風景。自然の色ってとてもきれいだ。

今週一週間は、色んな種類の本を読んでいた。マーケティング関係、イベント関係、お金に関することや経済、論語…、本棚を見て気になったものを手にとって読んでいた。意図があって読んでいたのではなくて、パッと気になって読んでいたのが本当のところだろう。そのため、正直頭にはあまり入っていないように思う。

その中に、久しぶりに「論語物語」も読み返していた。やはり子路という人間は、僕と似ているところがあるように思う。「志をいう」というお話がある。登場人物は、子路と顔淵、そして孔子だ。子路は、自負心が強くて、物事を浅っぽく考える癖があり、孔子から叱られる回数も多かった。しかし、門人の中でも、孔子から一番愛されてもいる存在だった。顔淵は、頭の回転が速く、一を聞いて十を知る持ち主である。それを誇らず、そして誰でも尊敬の念を持って接しいた人だった。

ある日、子路の姿勢を正そうと、孔子は、顔淵と子路の3人で話す場を作った。そこで、孔子は、それぞれの理想というものを子路と顔淵に話させ、子路に何かを気付かせようとした。子路が理想を述べた後、顔淵の理想の話を聞いてもピンくるものがなく、物足りなかった。そこで、孔子にも同じことを伺うことにした。子路の鈍さに驚きながらも孔子が自分の理想像を答えると、それを聞いていた子路は、ありふれた答えと写ったらしく、「孔子様の理想というものは、そのくらいだったのか」と拍子抜けした。しかし、今回こそ孔子に近づける答えを言えたと思って聞いていた顔淵は、顔をうな垂れた。まだまだ、自分は孔子に近づけないと感じたからだった。孔子は、子路に気付きを与えるためにその場を作ったのだが、逆に顔淵に深い気付きを与えてしまった。その後も孔子は、子路への配慮をどうしたものかと悩んだというお話だ。

なぜ、この話を書いたかというと、顔淵のように深い思考力を身に付けたいと思うからだ。顔淵は、すべて自分のことに置き換えて考えていた。しかし、僕は、何か注意されてもその場では気付かったり、発言した後に何か足りないと感じたりすることが多い。質問されたときに、サッと答えを出せることは確かに大切なことかもしれないが、それ以上に「自分の考え」をはっきりいえるようになりたいものだ。

今週本を読んだにも関わらず、その要点を言えない、捉えられていないということも同じことだと思う。浅いところではなく、もっと深いところで、物事を見極められるようにならなければ、同じところをぐるぐるしているように思える。さらには、顔淵のように、誰の意見に対しても同じような態度で聞ける姿勢も身に付けていきたい。乱読というか、心の迷いが色々な本に手が伸びている証拠だろう。顔淵のように、自分と向き合わなければ何も始まらない。

テーマ:スピリチュアル☆ - ジャンル:ブログ

「アナログの良さ」
原稿などに関する本を読んでいると、昔と今とではとても違う「書く悩み」があったようだ。

まず、提出する際は、「紙」だったことだ。当然だが、一昔前まで、PCやインターネットなど無い時代だ。データで送ることは、もちろんできなかった。そのため、原稿用紙に手書きで書いたものを提出しなければならない。
次にペンである。鉛筆だと、すぐに消すことができる利点があるものの、書いた部分に手を当てて次の文章を書かないといけないため、手の部分のところがどうしても黒ずんで、後々読みにくくなってしまう。そのため、作家は万年筆を愛用した。しかし、この万年筆は、鉛筆のように消すことができない。そのため、清書のときなど、間違えることができない。
次に、紙だ。紙質にもそれぞれあり、紙とペンの愛称を確かめながら書いていたようだ。その原稿を読む人への配慮も忘れてはいけない。分かりやすく読める文字でなければならない。一字一字を丁寧に書かなくれはいけない。
それから、書き間違えたときに、矢印を入れ替えていたり、何度も訂正していたりすると、これもまた読む人への迷惑になる。こうしてみていくと、原稿用紙一枚を清書して書くのにも、相当集中して書かねばならないことが分かる。

現在私達では、PCが使えるので、文章を書くために「Word」を使用している。ちょっと昔は、ワープロというものを使った人もいるかもしれない。文章の間の単語や、文章と文章の切り貼りができる。
漢字の変換もしてくれる。
手書きの文字が上手くなくても、誰もが同じ文章を書いたと分かる。整った文字にしてくれる。字体を変えることができる。同じ文書を何枚も印刷もしれくれる。
文章構成だって、文字カウントだってしてくれる。提出のときも、データで送信することができる。

なんと便利になったことだろうか。手書きしかなかったときと比べると、なんと省略化できたのだろうか。400文字詰めの原稿用紙などは、最近見る機会がない。

最近は、学生や主婦の方でも簡単に使えるようになったデジタルカメラとフィルムカメラの違いがある。これは、このプロのカメラマンもこのデジタルカメラを使うそうだが、フィルムカメラといったい何が違うのか?というのを質問した。
細かい点は、いくつかあるそうだが、一番違う点は、シャッターを切るときの「集中力」だそうだ。デジタルカメラでもフィルムカメラでも、写す瞬間は一瞬である。デジタルは、撮ったあとすぐその場で確認できる。気に入らなければ、また何度も取り直すことができる。フィルムカメラは、撮っても一度現像しないと確認することができない。さらに、撮影できる枚数に限りがある。そのため、一回のシャッターに込める思いが深くなるという。枚数も限られしかも確認できないのだから、完璧だと思うときにシャッターを押すようになるのだそうだ。そのため、フィルムカメラの方がよい写真ができることが多いと話されていたし、大切なときの写真は、必ずフィルムカメラを使用するそうだ。

僕達は、作家ではないにしても、手書きで書いてみるとよいかもしれない。今までに体験しなかったものすごい集中力が生まれてくるだろう。ネットからのコピーもできないし、簡単に文字を間違えることもできなくなるので、文字の一字をしっかりと確認するようにもなる。普段気にしなかった送り仮名なども注意してみるかもしれないし、書く前に辞書を引くようになるかもしれない。そうして、一枚の原稿を書き上げたときは、ワードにただ打つよりも違ったできになることだろう。

ワードやデジタルカメラが最新であるならば、手書きやフィルムカメラはアナログというのかもしれない。意外にアナログの方が、集中力という点で得るものの方が大きいように思われる。
「死蔵を生かせ」
先ほど、とても気持ち悪い夢を見た。口には出来ない、変な夢だった。
ならば、こうして書かなければよいと思われる。しかし、記憶とは忘れることが多い。こうして書いておくことで、この文章を読み返したときに思い出すことができるのではないか、そう思って書き残してみることにした。

毎日こうしてブログを書いていると、いつしかネタが無くなるのではないか、と思っていたときがあった。確かに、「今日は何を書こう」と考えたとき、パッと思い付かないときがよくある(もう少し方法を考えたればよいのだろうが)。

しかし、人間が生きている間は、何かの活動をしている。その活動の中で、人は、色々な経験をしたり知識を得たりしている。毎日料理を作っていても、全く同じ味を作り出すのは難しい。毎回相当の工夫がいるのだろう。毎日野球観戦をしていても、全く同じ内容の試合というものは存在しない。毎回違った感情が生まれるだろう。毎日通る交差点でも、全く同じ状況になることはない。毎回どこかに注意はらっているのだろう。毎日同じ活動の繰り返しのようであっても、その中での経験や知識というものは、毎回違うものなのである。つまり、毎回新しい知識や経験を積んでいることになる。そのため、書くためのネタは決して無くならないものなのである。

「書くこと」について、最近僕がうすうす感じていたことが、次の本によって形にすることができた。
「原稿の書き方」(尾川正ニ/講談社現代新書)
書くということ
(1) いままで意識されなかった自分に気付く。
(2) 本質的なものが、内在化されていることに気付く。見える事象、あるいは理解されている事実の底に、ある本質的なものの存在を見つける。客観的な理解の奥に潜んでいるものが、自分に集中することによって、掘り起こされるのである。
(3) 小さな事と思われていたものが、自分の意識をとおしてみることによって、拡大される。
(4) 意識の底に沈んでいた記憶が喚び起こされ、異なった次元に整序される。

上記の内容は、どれもが、僕が感じていたことだった。「あっ、自分とはこう考えていたのか。この体験でこんなことが学べていたんだ」と、書くことで自分を発見するのである。書く行為が自分に対してどんな意味を持つのか、それがこの文章によってはっきり分かったのである。

さらに、尾川正ニさんは、こう書いている。
「人間の頭には、数多くの体験と知識とが『死蔵』されている。書くことは、『死蔵』されているものを、よびさますことである」

「死蔵」とは、僕が以前書いた「自分の中にある情報」と似ている。知識や経験とは、無くなることはない。忘れてしまうだけのことだ。頭の中を池と考えてみるとよい。雨などで川から流れてきた砂や泥は、始めのうち、池を濁す。しかし、そのうち、動きが落ち着いてくると、砂や泥は池の底へ沈殿してしまう。水面は水、池の底は砂や泥となる。そこに、水車を回すとどうだろう。だんだんと、周囲の水を動かし、対流を起こすようになる。動かされた水が他の水にも影響する。次第に、水は、底に溜まっていた砂や泥にまで影響を与えることになる。最後は、砂や泥が水面下まで上ってくるようになる。この砂や泥を知識や経験と考えるとよいだろう。水車という書く作業によって、頭の中にある沈殿していた知識や経験をよび起こすことができるのである。「死蔵」を、掘り起こしたのである。

さらに書いていて気付いたことがある。メモである。
先ほど見た気持ち悪い夢も、いずれは、僕の頭の中に沈殿していくだろう。しかし、上のように書いておくことで、今度は思い出すきっかけにもなる。読み返すことでも死蔵を生かすことができるのである。つまり、書くことと読み返すことは、同じ水車の役目を果すのだ。

「死蔵」=「自分の中にある情報」とは、自分だけの知識や経験によるものだ。これは、他人にはないものである。自分の財産といってもよいだろう。今まで蓄えてきた知識や経験を無駄にすることなく生かせるのならば、書くという行為もなかなか捨てがたい手段である。こんな便利な方法を生かさない手はない。

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