昨日は、生まれて初めてネットカフェを利用した。久しぶりに会った友達と夜遅くまで話し、その帰りの手段がなくなったので、一緒にネットカフェで時間を潰すことにしたためだ。こんなことを書くと偏見を持っていると思われるかもしれないが、今までネットカフェと聞くと、どうも暗くて恐そうなイメージがあった。利用する機会もなかったので、今まで遠い存在だった。
みなさんはもうご存知だと思うが、ネットカフェには、マンガは読み放題、ネットは使い放題であり、さらに飲み物も何杯でも飲める。豊富に揃っているマンガのコーナーに行くと、懐かしい本がずらりと並んでいた。雑誌のコーナーにも立ち寄ると、洋服などのファッション雑誌や、バイクや車、スポーツなどの雑誌も揃っていた。豊富に揃っているマンガ、幅広いジャンルの雑誌、そしてネットが使え、DVDなども借りられる。ジュースも飲み放題なので小学生からでも使えるし、パソコンで資料作成をするビジネスマンにもよい。難しい操作などもないので、どんな人でも利用できるから、人気が続くのだろうかと考えた。
友達は先に寝てしまったので、僕は、読み終えていなかった「三国志」を探して読んでいた。ふと、雑誌コーナーに行くと、「マウリッツ・コルネリス・エッシャーの絵画集」の雑誌を発見した。こんなものまでネットカフェには置いてあるのかと、感心してしまった。マウリッツ・コルネリス・エッシャーの絵を、一度は目にしたことがあると思う。いつだったか、「スーパーエッシャー展」というものが福岡でも開かれたことがあったので、ご存知の人も多いだろう。彼の絵は、いつも独創的な作品ばかりで、とても不思議な世界を感じさせる。エネルギー保存の法則をくつがえすような「だまし絵」や、魚やトカゲなど違うオブジェクトが隙間なく並んでいる作品などが特に有名だ。こんな画集はめったに見られるものではないだろうと思い、一つ一つの作品と説明文を読んでいた。
主な作品は、
建築不可能な『滝』

二つの手がお互いの手を書いている 『描く手』

波うつ水面を境に魚と鳥のパターンが交錯する 『空と水』、凸面鏡をよういて部屋や顔を曲線で描いた『自画像』や『バルコニー』、新しい遠近法のあり方を示した『階段の家』、実際には作ることができないループ状階段を上り続けるひとと下り続ける人を描いた 『上昇と下降』などが有名である。作品を見ていくことで、「不思議の国のアリス」の世界にいるような、どこか別世界に案内されたような感覚になった。絵に数学的要素を取り入れ、平面に幾何学的な模様を作り出したり、常識の根底を覆すような建築物を描いたりする。なぜ、そうした絵を描けるようになったのか。それは、エッシャーが、過去の体験から人を信じようとしない性格で内向的な心理状態にあったという。そのため、孤独で寂しい気持ちを絵にしたという説もある。確かに、絵だけを見ていると、嬉しくなったり明るい気分になったりできる絵ではない。どことなく、繊細で緻密なところから、知的な部分を感じることと、冷たさを感じる。
この本に没頭していたら、ある小学校のときの体験を思い出した。(ちょっと、分かりづらいかもしれないが書いてみよう)
西区今宿に「忍者村」というところがある。その敷地内に、エッシャーの絵をきっかけとして「建築不可能な家」をできる限り再現したものがある。(今はもうない)
その家は、斜面に建てられているのだが、斜面にそって斜めに建てられている。傾いた家なのだ。当然柱も斜めに傾いている。では床はどうかというと、斜面とは逆向きの傾きで、斜めに作られている。家は右に傾いているのに、床は左に傾いて作られているのである。さらに奥に進めば建物の空間が小さくなるよう設定されている。そのため、本来は、5mほどしかない奥行きも、遠近法を用いることによって、奥行きが7〜8mあるような建物に見える。テーブルや家具もそれに合わせて、台形風になっていた。そうした建物の中を、実際に歩いて行くのだが、この体験は非常に面白かった。
頭では通常の建物とは違うものだと分かっているが、視覚の感覚と全く違うので、今の状況を理解するのに苦しむ。まず真っ直ぐに立てない、次に距離感覚が分からない。頭の平衡感覚が狂い、距離感覚もおかしくなり、体が思うように進まない状態になった。そのため、いつもの歩行ができなくなる。水道の蛇口から水が出ているのだが、全体が傾いているため、水がななめに落ちている錯覚が起きる。これがまた、頭を混乱させる。この建物の中で、正しく歩くためには、なにを基準として、まっすぐに立ち真っ直ぐに歩くけるようになるのか分からない。これはなにも僕が大げさに言っているのではなく、参加した大人たちも同じだった。鯉には、平衡感覚をつかさどる機能が頭ある。その機能を取り除いても生きることができる。しかし、そうした鯉は、上下も右左が分からなくなり、お腹を上にして泳ぐこともあるという。そうした感覚が、この建物の中にはあり、外に出たときは、気分が悪くなっていたほどだ。この中で唯一、まっすぐに立てるような基準となっていたのは、水が落ちる方向だけだった。
エッシャーの絵を見ていると、常識の世界について考えさせられる。水が落ちて、自然と高い位置まで上ることができるかと聞かれれば、それは無理だと答える。しかし、上の『滝』の絵を見ていると、絵と自分の常識の矛盾が生ずる。しかし、その矛盾の原因が分からずにいるため、その絵が正常だと思ってしまう。僕が体験してもよく分かったが、柱や床がちぐはぐに斜めとなっている空間にいるだけで、平衡感覚が狂った。僕たちは、視覚からの情報を多く取り入れることによって、普段の生活を行っている。逆に視覚の情報だけで、多くの判断をしていることにもなる。エッシャーの絵には、ただの「だまし絵」ではない。エッシャーは、一人寂しい状況から、普段の生活でも、視覚だけの情報に惑わされて判断しないよう注意し、物事を多面的に見る訓練とかつ本質を探る思考を鍛えるきっかけを作ろうとしたのかもしれない。